アンリ・メショニックの詩学関係の書物を開けば、言語学から出発した形跡や、言語学に対する批判的な検討があちこちに見られます。言語学は、言語活動を考えるための概念装置を提供してくれる到達点であり、「エクリチュールの認識」という詩学の入口に立つための出発点であったと言うことができます。
しかし、あるインタビューの中で彼自身が語っていますが、言語学に着手しはじめたのは「かなり遅く」(très tard)、1963年、リール大学でJean-Claude Chevalierの助手として勤務しはじめた頃だといいます。31歳になるかならないかのときですから、年齢だけみれば「かなり遅い」出会いとは思えません。
言語学と詩学の相互関係がヤーコブソンの「言語学と詩学」によって前面化したのは1960年のことです(もととなる講演は1956年)。たしかにメショニックは時流から遅れをとっていて、彼が両者の関係を問いなおすのは1969年になってからでした。「かなり遅い」というのはこういった当時の状況によります。では、そう言わせる理由は、メショニック自身の内にあったのかなかったのか。
メショニックは、言語学との出会いを「陽の当たる場所」と言っています。どうやら、それまでの間、彼の歩みはあまり明るいものではなかったようです。
彼は1958年、執筆活動を開始します。その年、ネルヴァル論といくつかの書評を「ヨーロッパ」誌に掲載し、翌年にはアグレガシオン(大学教授資格)を取得しています。しかし、その直後の1959年から、アルジェリア戦争に2年間従軍し、1961年からの2年間は、フォンテーヌブロー高校にフランス語教師として勤務していました。その間にメショニックは、「アルジェリアの詩」(« Poèmes d'Algérie »)を書いたり、Jean Massin監修のユゴー全集に論文を寄稿したり、また2つのエリュアール論を書いたりと、着実に詩人として歩みはじめています。
にもかかわらず、彼はこの時代を「陽の当たる場所」ではないとしています。
職を得る前の暗い時代、と言って済ますこともできますが、それにしては大袈裟な表現です。
やはり現実に、アルジェリア戦争が大きな影を落としているのでしょう。これは、メショニックだけの問題ではありません。ただ、彼におけるアルジェリアの問題を考えるときは、このとき彼が、詩を書き、詩の批評をする詩人であり、言語学から出発する詩学者ではなかったということに留意しておく必要がありそうです。
(別の側面の重要な契機として、アルジェリア戦争中に独学で学んだというヘブライ語と、ヘブライ語聖書を読む・翻訳する営みを挙げることができます。彼は東欧系のユダヤ人です。なぜ彼は戦争の中でユダヤ人であることに直面し、聖書というヘブライ文化の根本に立ち返ろうとしたのか。これは彼の「リズム」概念にユダヤ性がどう関与しているかという問題と切り離せません。)
メショニックは、シュヴァリエの助手を務めた後、1969年、ヴァンセンヌ実験大学センター(Centre universitaire expérimental de Vincennes)の創設に参加し、パリ第8大学では1997年まで教鞭をとることになります。さきほど述べたように、1969年は、メショニックが言語学と詩学の関係の間に詩学の問題を据え、詩学関係の理論を開始する年です。(「詩学のために」(Pour la poétique)というタイトルで「フランス語」誌に掲載された論稿がその口火を切ります。)そうすると、言語学との出会いを通じて詩学を打ち立てようとメショニックが研鑽を積んでいたのが、1963年から1968年までの頃、ということになります。
1963年以前の影の部分はいまだはっきりとしませんが、いずれにせよ、言語学は、メショニック自身の内で、理論という「陽の当たる場所」になりました。詩の見方、言語活動の見方という意味での理論です。言語学を通して詩学を打ち立て、そして言語学を越えていこうとする歩みが、1963年に始まるのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿