メショニックは、ただ一度だけバンヴェニストと面会している。それは1976年9月25日(土)の出来事である。
1969年、言語学者のエミール・バンヴェニストは失語症を患うが、メショニックは、彼に詩学関係の本を送り続けていた。すると、バンヴェニストが君に会いたがっているよと、ジャン・ラヨ(Jean Lallot)がメショニックに告げにやってきたという。失語症を患ったのち、バンヴェニストに本を送るひとは誰もいなかったから、そうなったのだろうとメショニックは回顧している。(この間に刊行されているのは、『詩学のために』の1-3巻と『記号と詩篇』、ヘブライ語聖書からの翻訳『五巻の書』である。)
ラヨと言えば、『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集』の執筆に協力した人である。彼とメショニックとの関係は不明だが、ラヨがアリストテレスの『詩学』をフランス語に翻訳したうちの一人であるのは気にかかる。というのも、メショニックはアリストテレスの「理論(テオーリア)」、(学問体系として詩学とは異なる)「詩学それ自体」に後年注目することになるからだ。しかし、1970年代はまだその再読の兆しはない。そのため、この線からラヨとの繫がりは見えてこない。
メショニックの言葉を一部引こう。
「彼は、わたしが述べる内容に喜び、そのたびに私の手を強く握りました。毎週土曜日に彼の病室を訪れることになりました。けれど、彼はその8日後に亡くなりました。わたしは、バンヴェニストに一篇の詩を捧げました。」
メショニックが言う詩篇が次のものである。
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pour Émile Benveniste
un jour de toutes les années
les mains couchées tenant le dialogue
on souriait on
dévorait les signes
les yeux ne voient pas le temps mais
les mots non échangés les fruits aux arbres à hauteur du visage
se croisent et
nous tenons
cette rencontre
comme
l'attente des dieux
entoure la terre de son cadavre
長いつきあいのなかのある日に
対話を握りしめながら横たわった手が
笑っていた それは
あらゆる記号を呑みつくしていた
目が時を見ることはない だが
交わされなかった言葉は 顔の高さに実る木々の果実となって
交叉し そうして
わたしたちはこの出会いから
離れずにいる
まるで
神たちが待ち受けながら
大地をその亡骸に包み込むようにして
(Légendaire chaque jour, Gallimard, coll. « Le Chemin », 1979, p. 42.)
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交叉した二人の手は、メショニックが紙の上の「長いつきあい」のなかで、たえずバンヴェニストから出発し、再出発したことを考えれば、なんとも乏しい出来事である。回想の語り口にもその熱はわずかにしか感じられないし、詩は永遠の郷愁に満ちている。だから、二人の現実の接触を探ったとしても礫のようにむなしい。
インタビューはメショニックが亡くなる2009年にセルジュ・マルタンによって行なわれた。(Entretien avec Serge Martin, « “Partant de Benveniste” en 1970... et en 2009 », in Émile Benveniste. Pour vivre langage, Mont-de-Laval, L’Atelier du Grand Tétras, 2009, p. 105-110.)
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