Chambé

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2014年1月13日月曜日

バンヴェニスト『一般言語学の諸問題・第二巻』の翻訳

Publié la traduction en japonais d'Émile Benveniste, Problèmes de linguistique générale, tome II, Paris, Gallimard, 1974.
Traduction fidèle ou libre ?

昨年10月末、バンヴェニストの『一般言語学の諸問題』第二巻が刊行されました。
原著は1974年ですから、待望の翻訳でした。
無い物ねだりですが、第一巻で翻訳されなかった論文も附録として訳出してほしかったです。
邦訳の書名は『言葉と主体―一般言語学の諸問題』(岩波書店)。
阿部宏監訳/前島和也・川島浩一郎訳。

翻訳書の方はまだ全部読んでいませんが、個人的に読んできたなかで当ててきた訳語と比較しながら読んでいます。助けられたり、微妙な用語法の違いにあれって思ったり、まったく解釈が違ってエッとなったり。個人的な作業はさておき、
翻訳としていかがなものか、評価はこれから定まっていくでしょう。
1969年に発表された「言語の記号学」(Sémiologie de la langue)の一節に、次のような訳文があります。せっかくなので一段落引用します。

芸術的な「言葉」の意味する関係は、作品の内部で見出すべきものである。芸術という用語で、個々の芸術作品のことだけを指しているわけではない。個々の芸術作品では、芸術家が対立や価値を自由に設定し、それらを絶対権力者として支配する。芸術家は反論にそなえる必要もなければ、矛盾を削除する必要もない。芸術とは、個々の作品である以前に、意識的あるいは非意識的な基準に従ってものの見方を表明することである。それがどのようなものであるかは、作品全体を見れば分かるし、また作品全体がその表明である。(54頁 訳=阿部宏)


原文は以下の通り。下線文に注目してみてください。


Les relations signifiantes du « langage » artistique sont à découvrir À L'INTÉRIEUR d'une composition. L'art n'est jamais ici qu'une œuvre d'art particulière, où l'artiste instaure librement des oppositions et des valeurs dont il joue en toute souveraineté, n'ayant ni de « réponse » à attendre, ni de contradiction à éliminer, mais seulement une vision à exprimer, selon des critères, conscients ou non, dont la composition entière porte témoignage et devient manifestation.  (p. 59)


"composition" を「作品」と訳しているのも少し気になりますが、下線部に絞りましょう。
訳文からは、芸術一般は個別の作品とは別の意味を含む、と解釈できます。
しかし、これは誤訳なのかもしれません。私の試訳によれば、原文では、「芸術というものは、ここでは、個々の芸術作品以外のものでは決してない」となり、決定的に違うことを言っています。
どうして訳者がそういう日本語にしたかは直接お尋ねしたいところですが、推測するに、“ne...pas que” あるいは “ne...point que” という成句と取り間違えたのだろうと思います。こちらは、“ne...que” (…しかない)の否定になり、「…しかないということはない」、「…だけというわけではない」という日本語になるからです。類似の表現は“ne...pas seulement” です。
一方、“ne...jamais que” という表現は、“ne...plus que”、“ne...guère que” と同じ構成で、“ne...que” の意味の上に、“ne...jamais” “ne...plus” “ne...guère” の意味が重なってできています。
朝倉文法から例を引くと、“Il n'ai jamais aimé que toi.” 「きみよりほかに愛したことは一度もない。」とあります。初級フランス語で勉強して、中級レベルで身に付くレベルでしょうね。

この翻訳が誤訳だと私は断言するつもりはありません。その理由は最後に書きます。
そもそも、一冊を翻訳すれば誤訳があるもので、訳者を悪に仕立てあげるつもりは更々ありません。しかし責任はある以上、翻訳者の名前を挙げました。誤訳(と思われるもの)の功罪は色々と考えられるものですが、ひょんなことからこうやって言語間を渡り歩く楽しみが与えられたりするものです。私はそれも読書のひとつだと思います。(あんまり多いと辟易しますがね。)

***

さて、ここの訳文が変だと思ったのは、メショニックのバンヴェニスト論を読んでいたからでした。メショニックは1970年の論文「記号論と詩学、バンヴェニストから出発して」の中で、次のように言っています。Pour la poétique II の p. 176 からの引用です。

L'antinomie banale du général au particulier est ainsi renouvelée. Puisque « les relations signifiantes du langage artistique sont à découvrir à L'INTÉRIEUR d'une composition. L'art n'est jamais ici qu'une œuvre d'art particulière... », ce particulier au statut mouvant opère dans le sémantique.

こうして、一般と個別の平凡なアンチノミーは刷新される。「芸術的なことばの意味を成す関係は、〔各作品の〕構成の内部で発見すべきものである。ここで、芸術〔という一般的なもの〕は、個別の芸術作品でしかない」のであるから、この動的な地位にある個別的なものは、意味論的領野において作動する。


バンヴェニストはここで、一般的なものと個別的なものを相互的に排除するアンチノミーから抜け出している、とメショニックは言っています。構造主義的なソシュール理解におけるパロールとラングの対立を批判する「ディスクール」をはじめ、バンヴェニストは二元論的思考から抜け出ていました。メショニックが強くバンヴェニストに影響を受けたのも第一にその地点です。
「言語の記号学」でバンヴェニストの詩的言語論は展開されていませんし、問題の一節の後に、この言語学者は、「言語」と「芸術的なことば」をそれぞれ記号論的領野と意味論的領野に区別できるものとして記述しています。したがって、一般的なものと個別的なものという対立図式を想定するのも、あながち間違いではないのです。誤訳とはいいがたく、直接お聞きしたいと言ったのはそういう訳です。


しかし、個人的にはメショニックの読みが面白いし、バンヴェニストの詩学に届いていると思います。メショニックは、冒険的な読み(ときに強引な読み)によって、言語学を詩学へと向かわせた人のひとりだったのです。最近のバンヴェニスト研究者の本から引いて、今日は終わりにします。

「アンリ・メショニックが、バンヴェニストのテクストの読解を可能にさせた。〔略〕彼によって、ソシュールとまったく同様に、バンヴェニストがひとつの詩学の方途を与えていたのを見ることができるようになった。」(Chloé Laplantine, Émile Benveniste, l’inconscient et le poème

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