Chambé

Chambé

2014年1月19日日曜日

[ajout] Seul contact Mesc. & Benv.


[前回の追記]

バンヴェニストとのあいだに交わされた1976年の唯一の接触は、メショニックの後年の詩篇でも回顧でもなく、「ことわざ」論をいったん迂回する。
これが70年代のメショニックによるバンヴェニストの継承のひとつの帰結であった、と考えてみたらどうだろうか。その論稿ではバンヴェニストへの直接的な言及はないが、明らかにバンヴェニストの言語学を下敷きにしているからである。(一箇所、ソシュールのメイエ宛の有名な手紙に触れられているのだが、これは
バンヴェニストが「ソシュール研究誌」(20号)に掲載したものである。
それだけでなく、「ことわざ」はメショニックの第一詩集のタイトルが示すように、70年代の彼の詩と理論のそれぞれに、また架橋にひとつの鍵となっていたからである。
だからどうということでもないけれど。


さて、メショニックはバンヴェニストを中心に論じた文章を三つ発表した。それが以下の論稿。その他の著作でも多数言及されている。

1970 : 
« Sémiotique et poétique, partant de Benveniste », Cahiers du Chemin, n° 10, octobre 1970, pp. 124-138. Repris dans Pour la poétique II, pp. 173-187.

1995 : 
« Seul comme Benveniste », Langages, n° 118, juin 1995, pp. 31-55
. Repris dans Dans le bois de la langue, 2008, Paris, Laurence Teper, pp. 359-389.

1997 : 
« Benveniste : sémantique sans sémiotique »
É. Benveniste. Vingt ans après. Actes du colloque de Cerisy la Salle, 12 au 19 août 1995‎, in Linx, n° 9, juin 1997, pp. 307-326. Repris dans Dans le bois de la langue, 2008, pp. 390-418.

これもすれ違いかもしれないが、メショニックは、バンヴェニストのボードレール論、詩的言語論が公刊される前に亡くなった。それを見ずに、バンヴェニストのなかに「詩学」と「言語理論」の結びつきを読みとっていた数少ない、あるいは唯一人のひとだった。彼は予言者(prophète)になってしまったのだろうか。
「ここで私が示したいことは、ただバンヴェニストが、このような理論上の連関を準備していると同時に、それが作り出されなければならないところまで彼は来ていたにもかかわらず、(私の知るかぎり、彼のものと認められているあらゆるテクストにおいて)この連関に気づいていないということである。」(1997)彼が目指したのは、両者の理論の連関であり、端的に、「ディスクール」の「リズム」という考え方である。ディスクールの運動のなかの組織化、それがリズムである。なんという直観、なんという茫漠さだろう。

2014年1月16日木曜日

Seul contact entre Meschonnic & Benveniste


メショニックは、ただ一度だけバンヴェニストと面会している。それは1976925日(土)の出来事である。

 1969
年、言語学者のエミール・バンヴェニストは失語症を患うが、メショニックは、彼に詩学関係の本を送り続けていた。すると、バンヴェニストが君に会いたがっているよと、ジャン・ラヨ(Jean Lallot)がメショニックに告げにやってきたという。失語症を患ったのち、バンヴェニストに本を送るひとは誰もいなかったから、そうなったのだろうとメショニックは回顧している。
(この間に刊行されているのは、『詩学のために』の1-3巻と『記号と詩篇』、ヘブライ語聖書からの翻訳『五巻の書』である。)
 ラヨと言えば、『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集』の執筆に協力した人である。彼とメショニックとの関係は不明だが、ラヨが
アリストテレスの『詩学』をフランス語に翻訳したうちの一人であるのは気にかかる。というのも、メショニックはアリストテレスの「理論(テオーリア)」、(学問体系として詩学とは異なる)「詩学それ自体」に後年注目することになるからだ。しかし、1970年代はまだその再読の兆しはない。そのため、この線からラヨとの繫がりは見えてこない。
 メショニックの言葉を一部引こう。

「彼は、わたしが述べる内容に喜び、そのたびに私の手を強く握りました。毎週土曜日に彼の病室を訪れることになりました。けれど、彼はその
8日後に亡くなりました。わたしは、バンヴェニストに一篇の詩を捧げました。」

 メショニックが言う詩篇が次のものである。

******************

pour Émile Benveniste

 
un jour de toutes les années
les mains couchées tenant le dialogue
on souriait on
dévorait les signes
les yeux ne voient pas le temps mais
les mots non échangés les fruits aux arbres à hauteur du visage
se croisent et
nous tenons
cette rencontre
comme
l'attente des dieux
entoure la terre de son cadavre

長いつきあいのなかのある日に
対話を握りしめながら横たわった手が
笑っていた それ
あらゆる記号を呑みつくしていた
目が時を見ることはない だが
交わされなかった言葉は 顔の高さに実る木々の果実となって
交叉し そうして
わたしたちはこの出会いから
離れずにいる
まるで
神たちが待ち受けながら
大地をその亡骸に包み込むようにして

(Légendaire chaque jour, Gallimard, coll. « Le Chemin », 1979, p. 42.)

******************

 交叉した二人の手は、メショニックが紙の上の「長いつきあい」のなかで、たえずバンヴェニストから出発し、再出発したことを考えれば、なんとも乏しい出来事である。回想の語り口にもその熱はわずかにしか感じられないし、詩は永遠の郷愁に満ちている。だから、二人の現実の接触を探ったとしても礫のようにむなしい。

その後、メショニックはReveu des sciences humaines誌に「ことわざ、ディスクール行為」という論考を掲載するが、そこに「エミール・バンヴェニストのために/1976101日」というエピグラムを付している。この日付は、出会いの6日後であり、その2日後の103日(日)にバンヴェニストは逝去した。

インタビューはメショニックが亡くなる2009年にセルジュ・マルタンによって行なわれた。(Entretien avec Serge Martin, « “Partant de Benveniste” en 1970... et en 2009 », in Émile Benveniste. Pour vivre langage, Mont-de-Laval, L’Atelier du Grand Tétras, 2009, p. 105-110.)

2014年1月13日月曜日

バンヴェニスト『一般言語学の諸問題・第二巻』の翻訳

Publié la traduction en japonais d'Émile Benveniste, Problèmes de linguistique générale, tome II, Paris, Gallimard, 1974.
Traduction fidèle ou libre ?

昨年10月末、バンヴェニストの『一般言語学の諸問題』第二巻が刊行されました。
原著は1974年ですから、待望の翻訳でした。
無い物ねだりですが、第一巻で翻訳されなかった論文も附録として訳出してほしかったです。
邦訳の書名は『言葉と主体―一般言語学の諸問題』(岩波書店)。
阿部宏監訳/前島和也・川島浩一郎訳。

翻訳書の方はまだ全部読んでいませんが、個人的に読んできたなかで当ててきた訳語と比較しながら読んでいます。助けられたり、微妙な用語法の違いにあれって思ったり、まったく解釈が違ってエッとなったり。個人的な作業はさておき、
翻訳としていかがなものか、評価はこれから定まっていくでしょう。
1969年に発表された「言語の記号学」(Sémiologie de la langue)の一節に、次のような訳文があります。せっかくなので一段落引用します。

芸術的な「言葉」の意味する関係は、作品の内部で見出すべきものである。芸術という用語で、個々の芸術作品のことだけを指しているわけではない。個々の芸術作品では、芸術家が対立や価値を自由に設定し、それらを絶対権力者として支配する。芸術家は反論にそなえる必要もなければ、矛盾を削除する必要もない。芸術とは、個々の作品である以前に、意識的あるいは非意識的な基準に従ってものの見方を表明することである。それがどのようなものであるかは、作品全体を見れば分かるし、また作品全体がその表明である。(54頁 訳=阿部宏)


原文は以下の通り。下線文に注目してみてください。


Les relations signifiantes du « langage » artistique sont à découvrir À L'INTÉRIEUR d'une composition. L'art n'est jamais ici qu'une œuvre d'art particulière, où l'artiste instaure librement des oppositions et des valeurs dont il joue en toute souveraineté, n'ayant ni de « réponse » à attendre, ni de contradiction à éliminer, mais seulement une vision à exprimer, selon des critères, conscients ou non, dont la composition entière porte témoignage et devient manifestation.  (p. 59)


"composition" を「作品」と訳しているのも少し気になりますが、下線部に絞りましょう。
訳文からは、芸術一般は個別の作品とは別の意味を含む、と解釈できます。
しかし、これは誤訳なのかもしれません。私の試訳によれば、原文では、「芸術というものは、ここでは、個々の芸術作品以外のものでは決してない」となり、決定的に違うことを言っています。
どうして訳者がそういう日本語にしたかは直接お尋ねしたいところですが、推測するに、“ne...pas que” あるいは “ne...point que” という成句と取り間違えたのだろうと思います。こちらは、“ne...que” (…しかない)の否定になり、「…しかないということはない」、「…だけというわけではない」という日本語になるからです。類似の表現は“ne...pas seulement” です。
一方、“ne...jamais que” という表現は、“ne...plus que”、“ne...guère que” と同じ構成で、“ne...que” の意味の上に、“ne...jamais” “ne...plus” “ne...guère” の意味が重なってできています。
朝倉文法から例を引くと、“Il n'ai jamais aimé que toi.” 「きみよりほかに愛したことは一度もない。」とあります。初級フランス語で勉強して、中級レベルで身に付くレベルでしょうね。

この翻訳が誤訳だと私は断言するつもりはありません。その理由は最後に書きます。
そもそも、一冊を翻訳すれば誤訳があるもので、訳者を悪に仕立てあげるつもりは更々ありません。しかし責任はある以上、翻訳者の名前を挙げました。誤訳(と思われるもの)の功罪は色々と考えられるものですが、ひょんなことからこうやって言語間を渡り歩く楽しみが与えられたりするものです。私はそれも読書のひとつだと思います。(あんまり多いと辟易しますがね。)

***

さて、ここの訳文が変だと思ったのは、メショニックのバンヴェニスト論を読んでいたからでした。メショニックは1970年の論文「記号論と詩学、バンヴェニストから出発して」の中で、次のように言っています。Pour la poétique II の p. 176 からの引用です。

L'antinomie banale du général au particulier est ainsi renouvelée. Puisque « les relations signifiantes du langage artistique sont à découvrir à L'INTÉRIEUR d'une composition. L'art n'est jamais ici qu'une œuvre d'art particulière... », ce particulier au statut mouvant opère dans le sémantique.

こうして、一般と個別の平凡なアンチノミーは刷新される。「芸術的なことばの意味を成す関係は、〔各作品の〕構成の内部で発見すべきものである。ここで、芸術〔という一般的なもの〕は、個別の芸術作品でしかない」のであるから、この動的な地位にある個別的なものは、意味論的領野において作動する。


バンヴェニストはここで、一般的なものと個別的なものを相互的に排除するアンチノミーから抜け出している、とメショニックは言っています。構造主義的なソシュール理解におけるパロールとラングの対立を批判する「ディスクール」をはじめ、バンヴェニストは二元論的思考から抜け出ていました。メショニックが強くバンヴェニストに影響を受けたのも第一にその地点です。
「言語の記号学」でバンヴェニストの詩的言語論は展開されていませんし、問題の一節の後に、この言語学者は、「言語」と「芸術的なことば」をそれぞれ記号論的領野と意味論的領野に区別できるものとして記述しています。したがって、一般的なものと個別的なものという対立図式を想定するのも、あながち間違いではないのです。誤訳とはいいがたく、直接お聞きしたいと言ったのはそういう訳です。


しかし、個人的にはメショニックの読みが面白いし、バンヴェニストの詩学に届いていると思います。メショニックは、冒険的な読み(ときに強引な読み)によって、言語学を詩学へと向かわせた人のひとりだったのです。最近のバンヴェニスト研究者の本から引いて、今日は終わりにします。

「アンリ・メショニックが、バンヴェニストのテクストの読解を可能にさせた。〔略〕彼によって、ソシュールとまったく同様に、バンヴェニストがひとつの詩学の方途を与えていたのを見ることができるようになった。」(Chloé Laplantine, Émile Benveniste, l’inconscient et le poème

2014年1月7日火曜日

Deux gestes meschonniciens

アンリ・メショニックのエクリチュールがみせる身ぶりは、少なくとも二つ考えられる。

ひとつは、脱出の身ぶり。
この系列には、中心をずらすこと、変形、転移なども含まれる。それはあたかも、出エジプトの、あるいは亡命のイメージを呼び起こす。

もうひとつは、連続の方へという身ぶり。
この系列には、総体化、運動、相互的連関などを置くことができ、直接的にはこの観点からメショニックの鍵概念が出て来る。「意味―かたち」「エクリチュール―レクチュール」「リズム」「口承性」「モデルニテ」「言語活動=詩学=倫理性=政治性」などがそれである。


A mon avis, il y a deux gestes principaux, au moins, dans l'écriture d'Henri Meschonnic.

L'un est "sortir de" quelque chose, par exemple sortir de la tradition de Platon.
Cette série implique le déplacement, la transformation, le glissement, etc. Comme si ça évoquerait une image d'Exode, ou plutôt d'exil.

Un autre geste est d'agir "vers le continu".
On pourrait s'y situer une mise en ensemble des concepts, en mouvement de la parole, et l'implication réciproque. De ce point de vue viennent tous les mots-clés de Meschonnic : "forme-sens", "lecture-écriture", rythme, oralité, modernité, "le langage-la poétique-l'éthique-le politique", etc.

2014年1月5日日曜日

"Une place au soleil" de 1963

アンリ・メショニックの詩学関係の書物を開けば、言語学から出発した形跡や、言語学に対する批判的な検討があちこちに見られます。言語学は、言語活動を考えるための概念装置を提供してくれる到達点であり、「エクリチュールの認識」という詩学の入口に立つための出発点であったと言うことができます。

しかし、あるインタビューの中で彼自身が語っていますが、言語学に着手しはじめたのは「かなり遅く」(très tard)、1963年、リール大学でJean-Claude Chevalierの助手として勤務しはじめた頃だといいます。31歳になるかならないかのときですから、年齢だけみれば「かなり遅い」出会いとは思えません。

言語学と詩学の相互関係がヤーコブソンの「言語学と詩学」によって前面化したのは1960年のことです(もととなる講演は1956年)。たしかにメショニックは時流から遅れをとっていて、彼が両者の関係を問いなおすのは1969年になってからでした。「かなり遅い」というのはこういった当時の状況によります。では、そう言わせる理由は、メショニック自身の内にあったのかなかったのか。

メショニックは、言語学との出会いを「陽の当たる場所」と言っています。どうやら、それまでの間、彼の歩みはあまり明るいものではなかったようです。

彼は1958年、執筆活動を開始します。その年、ネルヴァル論といくつかの書評を「ヨーロッパ」誌に掲載し、翌年にはアグレガシオン(大学教授資格)を取得しています。しかし、その直後の1959年から、アルジェリア戦争に2年間従軍し、1961年からの2年間は、フォンテーヌブロー高校にフランス語教師として勤務していました。その間にメショニックは、「アルジェリアの詩」(« Poèmes d'Algérie »)を書いたり、Jean Massin監修のユゴー全集に論文を寄稿したり、また2つのエリュアール論を書いたりと、着実に詩人として歩みはじめています。

にもかかわらず、彼はこの時代を「陽の当たる場所」ではないとしています。

職を得る前の暗い時代、と言って済ますこともできますが、それにしては大袈裟な表現です。
やはり現実に、アルジェリア戦争が大きな影を落としているのでしょう。これは、メショニックだけの問題ではありません。ただ、彼におけるアルジェリアの問題を考えるときは、このとき彼が、詩を書き、詩の批評をする詩人であり、言語学から出発する詩学者ではなかったということに留意しておく必要がありそうです。
(別の側面の重要な契機として、アルジェリア戦争中に独学で学んだというヘブライ語と、ヘブライ語聖書を読む・翻訳する営みを挙げることができます。彼は東欧系のユダヤ人です。なぜ彼は戦争の中でユダヤ人であることに直面し、聖書というヘブライ文化の根本に立ち返ろうとしたのか。これは彼の「リズム」概念にユダヤ性がどう関与しているかという問題と切り離せません。)

メショニックは、シュヴァリエの助手を務めた後、1969年、ヴァンセンヌ実験大学センター(Centre universitaire expérimental de Vincennes)の創設に参加し、パリ第8大学では1997年まで教鞭をとることになります。さきほど述べたように、1969年は、メショニックが言語学と詩学の関係の間に詩学の問題を据え、詩学関係の理論を開始する年です。(「詩学のために」(Pour la poétique)というタイトルで「フランス語」誌に掲載された論稿がその口火を切ります。)そうすると、言語学との出会いを通じて詩学を打ち立てようとメショニックが研鑽を積んでいたのが、1963年から1968年までの頃、ということになります。

1963年以前の影の部分はいまだはっきりとしませんが、いずれにせよ、言語学は、メショニック自身の内で、理論という「陽の当たる場所」になりました。詩の見方、言語活動の見方という意味での理論です。言語学を通して詩学を打ち立て、そして言語学を越えていこうとする歩みが、1963年に始まるのです。